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FILM MAKER TAKESHI IKEDA
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2007年01月12日(金) まっさらな大地

夜明けの冷たい空気が頬を切りつける。
巻いたマフラーを少しだけずらし、
気にしないように先を行く。

道に流れているトラムのレールも、
温もりなど感じられないほど痛みが走っていた。
正月だというのに人の群れ。
群衆からは呼吸も聞こえない。
空遠くに見える光に呼応している自分の目。

スタートはいつも不毛だ。
そこから重ねていく秒針が奏でられるまでは。
行き先も無数にある。
水のように人の思考も姿形を変えられる。
吹き付けられる風に流されるようなことはない。

環境論


いまイタリアにいて、この社会が自分の中での当たり前になりつつある。
日本からイタリアに来たばかりの頃、
違いに驚いていたはずのことがいまでは当たり前で、
何とも思わないことがある。

例えば列車の発車前の突然のホーム変更。
ストライキの多さ。
休日には全く機能していない街。

日本の当たり前を忘れることなどありえないものだけど、
ルーズさが当然の中に過ごしていれば、
それに鈍感にもなっていくものである。
何を話せば日本人にとっては刺激的な話になるのか?
そんな題材すらわからなくなる。

研ぎすまされた感覚を失いたくないと思いながらも、
流れに逆らおうすればうまく生きていけない社会に飲み込まれていく。


ほどよい撹拌


自分と違う感覚に戸惑いながら、
自分を押し殺して生きていく。
イタリアに来た本意は自由に生きることだったはず。
なのにそれと反する、
それまで以上に要求される人間としての忍耐力。

耐え生きることを美とする日本にあれば、
自分の欲求を隠していくことを求められる。

耐えて人と歩調を合わせていくことが大切なことなのだろうか?
映画は調和を生み出す。

ぶつかりあって生み出される美もあるのではないだろうか?
例えば上辺だけでうまくつきあうことで、
波風立てずいい関係でいくことはできる。
でもそれで相手の本当の気持ちなどわかるものだろうか?

職人たちともとてもよい関係を築いているとはいえる。
でも僕の中に一つ不安があるとするならば、
仕事を共にしている間ではないということ。

鈴木さんのようにマルコとコラボレートすることで、
対立や意見の交換の中から生まれていることもあるはず。
相手を受け入れ受け入れられだけではわからないもの。

そんなものもあるはずだと。
そう考えたらその一歩を踏み込むための<方策>を考える必要がある。

化学反応


以心伝心などない。
言葉で相手に伝えることが当然、
そういう環境の中で生きている人たちは、
暗黙の了解などという思考は決してない。

僕などは「そんなこといわれなくてもわかるよ」
ということでも、うるさいくらいに言ってくるイタリア人。
でも彼らからしたらそれが当たり前。

そこに新鮮さを感じているレベルならば、
親切さにも通じるのかもしれない。
確認という名のコミュニケーションでもあり、
わかりあうための重要な<ファクター>でもある。

本当の自分を放出することでぶつかりあい、
壊れた先から生み出される新たな思考。


強い想い


みんなで映画を作っていた頃は、
意見がバラバラ、想いもバラバラだった。
それぞれが作りたいと思うもの、やりたいということ、
すべてがまとまることなく作品が宙に浮いたような感じだった。

お互いがうまくやっていこうというよりも、
「いい作品を作りたい」というそれだけなのに、
想いが強すぎてお互い戦わせるばかりで、
空回りしてしまっていた。

いいものを作りたいという熱い気持ちだけが、
みんなの作品作りへの情熱を駆り立てていた。
チームワークなんてモノは二の次だった。

共に作業をする者との関わりの中で、
いろいろと見えてくる心象風景もたくさんあった。
自分の視点だけではなく相手の視点から探ることもあったし、
外野からの声に耳を傾けざるを得ないなんてこともあった。

自分の意見を出しながらもこだわりすぎず、
人々を率いながらも調和を生み出していく中で、
バランスよく作品をまとめあげていく。
監督の仕事の一つである。

羽交いじめの自由


その頃の余裕が見えない自分を思い返す。
「いい作品を作りたい」
そんな片隅にある膿みのようなプライドで、
切り裂いてきたものがある。

作品への想いがもっと別のところにあるいまは、
人の意見に動じるなんてこと、あまりないのかもしれない。
共同作業の映画製作にはないものがいまは見えていることだろう。

しかしその逆もまたあり。
よくいえば自由であるが、
ルールあってこその自由。
いまのやり方は独裁的とも言えなくもないかもしれない。

自分で自分を戒めないといけないわけで、
他からの意見がなければすべてがまかり通る。
想いにはブラインドがかかっている。

いかにして自分のイメージを叩きのめせるか?
発想を反転させられるか?
イイと思えるものを捨てられるか?

孤独な作品作りとは自由と引き換えに失っているものも多々あり、
それは職人たちにも通じているものであろう。
最大公約数的ないいモノ作りは、
自分を反映させすぎることはできなくても、
自分自身を投入してぶつかりあうことで、
いいモノへの確信を徐々につかんでいく作業とも言える。


導かれた通り


人との調和が生み出してきたものもある。
自分一人ではここまでできなかった。
だからこそ人にたより、願い、協力を請うてきた。
そしてできたこともたくさんあり、

自分の無力さに気付かされる。

こういういい人と出会えるために
そう気付かせられるために
いろいろな試練のような

電車の遅れ、変な人との出会いがあったんだから

自分もいまならここまで来たのも「運」だと言えるような気がする。




この日、撮影した映像の一部を公開しています。どうぞご覧下さい。
やると見るとじゃ大違い - Verona 4




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