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FILM MAKER TAKESHI IKEDA
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2006年05月26日(金) 耳に届いた華

いつもの各駅に乗る。
乗り心地がいいわけではない。
古びれた車両に汚れたシート。
ニオイの漂うトイレ。

走り出せばひどく揺れ、
イタリア人のおしゃべりが響き渡る。
長時間乗り続けていれば、
ただそれだけで疲労がたまる。

次々と矢継ぎ早にすぎていく景色。
移動中のヒマつぶしにしては、
味のある建物に出会える。
それはまるで出入りする人の表情まで
思いめぐらせることができそうで、
思わず飛び降りて撮影をしたくなることもある。

視線の先にある、
そんな景色を見ているときは、
列車の振動も時を刻む音も聞こえない。

僕を取り巻いている幕のようなものは、
検札に来る車掌の「ビリエット (切符)」の声が取り除く。
目の前の窓ガラスを叩き割られるかのような、
そんな突然目に入ってくる光にも似た虚無感が走る。

花がくれた息づかい


昼下がりに訪れた Tappezzeria は閉まっていた。
工房の横の窓から中が覗き込むことはできるので、
昼休みだろうと街を巡りもう一度来ることにした。

街角の花壇に咲く花。
交通量の多い交差点で、
市の労働者に植えかえられている。
どこで育てられたのであろう?
まるでマスゲームのようだ。

遠くからやってきた花。
車や人の行き交う中に放り込まれて、
人々の息づかいを見て微笑む。
その瞬間のほおの動きは少し色あせて見えた。

見えないものに語りかけられる花。
いろんな表情の中で形作られるものは、
人々の心に残っていくのだろう。
自由を奪われてもなお生き続ける。
強さがみなぎっている。

16:00 頃になり工房の前をすぎると黒髪が見える。
ふと目が合い挨拶をすると、僕のことを覚えていた。
1年以上前、飛び込みで滞在時間も一時間たらずだったろうか?
久々の再会に6つの目は感激していた。


真実の破壊


普通の訪問者と違って僕が覚えられるのは何故か?

1.まがりなりにもイタリア語を話すアジア人であること
2.イタリアに住んでいること
3.彼らには言っていないが、映画を撮っているということ
4.仕事に対して興味・理解を示していること
5.必ず次回再び来ることを予告して帰ること

仮にこれ以上の理由があったとして、
それでも僕を覚えていたことには驚く。
覚えてもらえていた。
それだけでここを訪れる。

逆にまったく忘れられていたことをイメージする。
としたら僕はどんな行動を起こしていただろう?
前回と同じく自己紹介から始めただろうか?

いずれにしても30を超えれば、
以前話したことなんて記憶の半分にも残っていない。
おそらく何度か同じ話しはしていただろう。

彼らに受け入れられているかいないかなんてことは、
ほとんど大切なことではない。
考えるべきことは受け入れられていたとして、
受け入れられていなかったときのことをイメージできるか?
またその逆がイメージできるか?

自分がいいと思ったインスピレーションは、
高い割合でいいものである。
がしかし100%ではない。

一方が正しくて一方は正しくない。
そんな二元論で語れるような世界でないことは、
イヤなくらいわかっている。
でなければ日本を出てイヤな思いまでして、
映画をやろうだなんて思わない。

常に正対するものを正しいと仮定して、
自問自答、自己批判することが、
少なからず客観性につながるものである。
僕は常に対極を見ていなくてはならない。

簡潔なストーリー


マリアーノを取り上げたくなる、
他の職人にないもの。

1.風刺の感覚がある
2.工房に日本人がいない
3.静けさを好む (ローマ・ミラノなどはNG)
4.日本やミラノに彼と同じ仕事があるのか聞いてくる

スピードや情報に溢れ帰っている現代社会を、
遠回しに皮肉っているような発言をしてくる。
これはマルコ・ノッリにもない感覚、
というより彼にはありえないものである。

彼は次から次へと僕が想っていることを口にする。
それはまるで僕の代弁者のように。
ここでカメラを回しっぱなしにすれば、
ストーリーは完結なのではないだろうか?
そんな気にすらさせるマリアーノ。

映画なんてウソでダマしあい。
虚構の産物。
それがまかり通り、
人の感動をあおれるならいいが、
明らかにウソの中で撮ったもので人に伝える。
それでもいいのだろうか?

僕の想うことを口にする彼を見ていると、
彼の語るドキュメントさえ撮ればいいとすら思えてくる。
そんな彼の素朴な誠実さを感じていると、
僕はホントの中での表現しか伝えられない。
その程度の作家なんだろう。


単純なこと


30分程度の滞在でしかなかった。
マリアーノは「それだけのために来たのか?」
驚いて当然だろうけど、
僕は別に理由など言わなかった。
彼に興味を持っているから「マリアーノと会いたい」
それだけ。

少しの時間でも実際に彼と会って話して、目を見ること。
きっとそこに僕が感じることがあり、
彼も感じることがあるだろうから。

ホントの自分を伝えるためには、
この作品にマリアーノは必要である。
ウソや冗談の多いイタリア人が多いからこそ、
自分にウソをつかない彼を撮る意味がある。

職人との関わりを含めた映画以外のすべてにも
「ホンモノを撮りたい」
そういう誠実さを作品に込められたら
どんなにいいだろう?

変わっていく通り道


ヴェローナはミラノから近いとはいえ、
街自体興味をそそられるものではなかったが、
マリアーノの人柄を見るにつけ、
ヴェローナにも足を運ばせる必要があるように思えてきた。

当初考えていたクレモナ・パルマ・ジェノバ・ボローニャの
4都市メインの撮影計画も次第に形を変えるようになってきた。
これは構成上当然の成り行きではある。

それはロードムービーの特色でもあり、
出会う人の色が濃ければ濃いほど、
その人を撮っていきたくなるものである。

ラヴェンナもヴェローナもヴォルテッラ同様、
物理的な条件で簡潔に撮影を終わらせる事を考えていた。
が、人を見るにつけラヴェンナやヴェローナは、
僕にとって外せなくなってきてしまった。
一日やそこらで撮れるような素材ではない。
カメラを回さない日も必要であることを悟ったのだ。

アーディジェ川の外 (街の中心から外れている) の工房とはいえ、
ヴェローナの中心にいながら感覚的にローカルな田舎の人である。
例えば車のエンジン一つ聞こえてきただけで
「エンジン音が聞こえただろ。ノイズはそのくらいだけ。
ここはそのくらい静かな場所だ」
小さな工房で地味に「個」を対象に、
家族代々の伝統を引き継いでいく。




この日、撮影した映像の一部を公開しています。どうぞご覧下さい。

Tappezzeria - Verona 2

対極・二面性への挑 - Verona 3




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